ピクサーの「トイ・ストーリー」発表前の黎明期からディズニーへの株式売却までの物語。著者はまだ1作の長編映画も公開しておらず、世間的には得体の知れないベンチャーだった時期にスティーブジョブズに誘われ、当時のピクサーの古びた試写室で見た製作途中のトイ・ストーリーが持つ可能性に魅入られ、最高財務責任者を務めたローレンス・レビー氏。どれだけ映画界におけるイノベーションの可能性があったとしても、当時のディズニーとの契約内容を精査すれば、コンピュータアニメーション1作にかかる費用と時間からしてビジネス的に成功が厳しいかと、その会社に転職するのがいかに無謀なチャレンジだったかがよく分かったはずだ。聡明な著者も十分にそれについては認識していたが、それでもピクサーがチャレンジしていることと、クリエイティブなチームの可能性を信じて入社した。ジョブズも著者も、会社のトップではあったが、クリエイティブ面にはまったくといっていいほど干渉しておらず、どうやって魔法のような映画が生まれたかは記述が少ないが、勝ち筋が見えないビジネスを離陸させるために何を考え、行動してきたかは非常に参考になった。
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以下、読書での私的メモ。
シリコンバレーなどというものがどうして生まれたのだろう。私は、昔から不思議に思っていた。新興企業の仕事をするたび、スタートアップが自分たちの市場を食い荒らすのを、資源が潤沢で経験豊かな経営陣がそろっている大企業が指をくわえて見ているのはなぜだろうと思ってしまうのだ。
(中略)
ディズニーがピクサーになっていないのはなぜなのか。ピクサーに成功のチャンスがあるのなら、何十年も王としてアニメーション世界に君臨してきたディズニーがコンピュータアニメーションに乗り出しているはずではないのか?答えは、当然、そうしていてよかったはず、だ。では、なぜ、そうしなかったのだろうか。
理由はひとつしかない。文化だ。私はそう思う。
文化は目に見えないが、それなしにイノベーションは生まれない。新しいものを生み出す元は、普通、状況や環境ではなく個人だと考える。そして、その人をヒーローとしてあがめ、そのストーリーを語る。だが、その実、イノベーションは集団の成果である。天才がいなければ生まれないかもしれないが、同様に、環境が整っていなければ生まれない。活気も大事だ。だから、なんとしても、ピクサーの文化と活気を守らなければならない。
会社というものは生物によく似ている。それぞれ、個性や感情、習慣がある。トップなら好きにできるはずだと思うかもしれないが、たいがいは、トップも、変えがたい会社の文化に縛られている。そして、会社は、成功すると保守的になる。創立当初は確かにあった創造性の炎が、成果を求める圧力で消えてしまう。成功すると守るものが増え、同時に何かを失ってしまう。勇気が恐れに圧倒されるのだ。
大企業と取引するスタートアップ側の弁護士をした経験から、私はIBMやデジタルエクイップメントなど、ハイテク世界に君臨した東海岸の巨大テクノロジー会社が堅苦しい階級文化に染まってしまったことを実感した。指揮命令のラインがはっきりしており、上の命令は絶対。ライン外からの影響は排除する。政治力がものを言う。革新的でイノベーションの実績がある人が昇進するとはかぎらない。行きすぎた階層秩序と官僚主義が広がるとイノベーションは死ぬ。ピクサーでは、そうならないようにしなければならない。
通勤の車でひとり沈思しているうち、ふと気づいた。いくら考えてもらちはあかない、と。大丈夫だ。割れ目の向こうまで飛べると思ったから飛ぶのではなく、状況に背中を押されて飛ばざるをえなくなることもある。いちかばちか、飛んでみるしかなくなるわけだ。そして、いまがそういうときなのだろう。動かなければ始まらない。まずは、オプションの問題だ。
交渉では、落としどころを用意したうえでこれは難しいだろうと思う条件を打ち出すのが普通だ。このやり方ではあらかじめ落としどころを考えなければならず、そのせいで弱腰になりがちという欠点がある。自分自身を相手に交渉する感じになってしまうと言ってもいい。できればこのくらいという条件を要求してはいるが、心の中では、落としどころでもいいやと思ってしまっているわけだ。
スティーブも私も、そういうやり方は嫌いだった。落としどころなど用意しない。スティーブの場合、要求をいったん決めたらそれが絶対になる。望むものが得られないなら、代わりになるものなどない、よって交渉は打ち切るーーそのくらいの覚悟で交渉に臨むのだ。だからスティーブはすさまじいまでの交渉力を発揮する。自分の条件にしがみつき、譲歩しない。ただし、やりすぎてすべてご破算になるおそれもある。落としどころを用意しないのであれば、なにを要求するのか、慎重に考える必要がある。
ずっと一方向に進み続けるのが無理であることは、物理学を持ち出さなくても明らかだろう。遅かれ早かれ、スローダウンすることになる。株であれ不動産であれ、経済であれ、それこそ文明社会全体であれ、ブームはいつか去る。どれほど大きなブームであっても、だ。
人は、永久を夢見て城を築き、教会を建て、記念碑を作る。これらは堅牢に見え、なにかが少しずつ動いていてもわからなかったりする。迫りつつある変化の波が見える場合もあるが、気づいたときには流されていることの方が多い。そういう変化の波がピクサーに迫っているーー私にはそう思えてならなかった。
文学書や哲学書を読んでいた。お気に入りは、ノーベル賞作家トーマス・マンが書いた傑作、「魔の山」だ。主人公ハンス・カストルプがスイスアルプスの高地にある結核療養所を訪れる話である。この本は、病気や愛、死、哲学など人間の経験や体験が次々に登場するところがすばらしいし、紆余曲折を経て知的にも感情的にも精神的にも成長していく様が描かれているからすばらしい。