日下公人氏の「戦前の教科書」を再読。
本書、大正期から昭和15年まで尋常小学校で使われた国語の国定教科書の内容の素晴らしさを紹介する本で、具体的には、大正7年(1918年)から使われたハナハト読本と、昭和8年(1933年)から太平洋戦争の開戦まで使われたサクラ読本についてだ。
どちらも全12冊で、当時の小学生は1年間に2冊ずつ勉強していた。
小学校における国語の授業の比率が全体の半分近くを占めたという現代との違いにも驚くが、なにより衝撃だったのは、この当時の教科書が単純に「おもしろい」こと。
今、大人の私が読んでも普通に読み物としておもしろい。
扱われている題材は非常に幅広く、日本の偉人は当然のこととしてダーウィンやナイチンゲール、第一次世界大戦でのロシアの将校、古代ローマの王など広く世界に目を向けていた。
豊かな情操教育とともに、科学や歴史の勉強にもなっていたのだと思う。
曽我兄弟や鉢の木の話は知らなかった自分を恥じた。もっと勉強したいと思った。昔の小学校6年の義務教育過程の勉強を・・・。
*
以下、読書での私的メモ。
一般的に歴史を学ぶとは、出来事と年号を覚えるぐらいに思われている。科学的であることや客観性とかを重視するあまり、「われわれ日本人のメンタリティを育んでだ歴史」という視点が、まったく教えられていない。
p19
今も昔も、国語はすべての勉強の中心だ。算術(算数のこと)も歴史も理科も、どの教科も日本語で習うわけだから、国語力なしには勉強が進まない。漢字を読むことができなかったり、文章の理解が間違っていたのでは困る。概して国語の成績のいい子どもは、他の教科も平均点以上であることが多いものだ。
(中略)
われわれは言葉を通じて他人の考えを理解し、自分の意見を伝える。自分と他人を区別しているのも言葉による。母国語である日本語は、コミュニケーションの大切な手段である。すなわち「どうして自分はそう考えたのか」を表明する方法、記述する体系を学ぶのが国語なのである。
p52
江戸時代、庶民の文化レベルはきわめて高かった
寺子屋の様子を描いた絵を見ると、子どもが10人くらい、それぞれ違うことをしている。(中略)日本人の識字率は、江戸時代から世界最高水準だった。算盤や実務的な計算もできた。(中略)現代では九九といえば掛け算だが、江戸時代は割り算の九九も子どもたちに暗唱させていたらしい。(中略)
江戸時代、庶民全体の文化・教育のレベルは世界と比べても非常に高かった。裾野が広いから頂点も高い。『塵劫記』は版を重ねるうちに、読者への挑戦として、解答を示さない問題を巻末に付けるようになる。問題を解いた人が、新しい問題を出す「遺題継承」という連鎖が起こって、日本の数学は急速に高度化するのである。
p75
江戸時代の面白さは、地方ごとに特色があり、それぞれに高い文化を持っていたことだ。当時は自分の藩独自の技術を育てることに熱心な殿様が多かったので、各藩ならではの特産品や専売品が多く存在する。盛岡藩の南部鉄瓶や、宮津藩の丹後縮緬(ちりめん)、福山藩の備後表、高松藩の和三盆など、今もブランドとして珍重されている多くの産品がこの時代に登場している。
江戸時代も後期になると、西洋の学問・科学技術に興味を持つ殿様は、大砲を作らせたり、溶鉱炉を作らせたりした。四国の宇和島藩は10万石に満たない小藩だが、参勤交代のときに品川沖で蒸気船を見た殿様が、「我が藩でもあのような船を作れ」と命じた。そんなことのできる技師など当時いるはずもなく、建造を託されたのは、研究熱心で腕がいいと評判の提灯職人だった。それでも苦心惨憺の末、とにかく走らせることに成功したのだから、庶民の文化レベルの高さに驚くほかはない。このとき、オランダ後で書かれた蒸気エンジンの図面を翻訳したのが、そのころ宇和島藩に通訳としてアルバイトに来ていた大村益次郎だ。
p78
*そして最後に、少々長いが当時の尋常小学校の6年生が、義務教育過程のカリキュラムの最後に勉強していた「我が国民性の長所短所」について、今読んでも非常に学びになるのでその全文を以下に掲載する。
◆「我が国民性の長所短所」
我が国が世界無比の国体を有し、三千年の光輝ある歴史を展開し来って、今や世界五大国の一つに数えられるようになったのは、主として我々国民にそのだけすぐれた素質があったからである。
君と親とに真心を捧げ尽くして仕える忠孝の美風が世界に冠たることは、今更いうまでもない。忠孝は実に我が国民性の根本をなすもので、これに付随して幾多の良性・美徳が発達した。
東海の島によった日本は、国家を建設する上にすこぶる有利であった。四周の海が天然の城壁となって、容易に外敵のうかがうことを許さないから、国家の存立を危うくし、国民の生活をおびやかすような機器は絶無であり、国内はおおむね平和であった。
したがって国民は国の誇りを傷つけられたことがなく、またその誇りを永久に持続しようとする心掛けもできて、いざといえば、挙国一致国難に当る気風を生じた。
万世一系の皇室を中心として団結した国民は、かくていよいよ結束を固くし、熱烈な愛国心を養成した。その上我が国の美しい風景や温和な気候は、自ら国民の生活を穏健ならしめ、自然美を愛好するやさしい性情を育成するのにあずかって力があった。
しかしこの事情は一面に国民の短所をもなしている。狭い島国に育ち、生活の安易な楽土に平和を楽しんでいた我が国民は、とかく引込み思案におちいちやすく、奮闘努力の精神に乏しく、遊惰安逸に流れるかたむきがある。
温和な気候や美しい風景は、人の心を優しくし、優美にはするが、雄大豪壮の気風を養成するには適しない。
ことに徳川幕府二百余年の鎖国は、国民をして海外に発展する意気を消磨せしめ、いたずらにこの小天地を理想郷と観じて、世界の大勢を知らぬ国民とならしめた。
その結果今日もなお国民は真の社交を解せず、人を信じ人を容れる度量に乏しい。
そこで海外に移住しても外国人から思い掛けぬ誤解を受けて排斥されるようなことも起こってくる。
すべて日本人の短所として、性質が小さく狭く出来たきらいがある。
その原因はいろいろあろうが、昔からこの島国で荒い浮世を知らずに過ごしてきたことがその主たるものであろう。今日我が国が列強の間に立って世界的の地歩を占めた以上、こういう短所はやがて我が国民から消し去られるであろうが、できる限り早くこれを一掃することは我々の務めではるまいか。
支那・印度の文明を入れ、さらに西洋の文明を入れて長足の進歩を成し遂げた日本国民は、賢明な機敏な国民である。他国の文明を消化して、これを巧みに自国のものとすることは、実に我が国民性の一大長所である。
しかしこの半面にもまた短所がうかがわれはしないであろうか。自分で思うままに造り出す創造力は、十分に発揮せられたことがなく、昔からほとんど模倣のみを事としてきた観がある。
習、性となっては、ついに日本人には独創力がないであろうと自らも軽んじ、外国人からも侮られる。しかし模倣はやがて創造の過程でなくてはならぬ。我々はいつかは模倣の域を脱して十分に独創力を発揮し、世界文明の上におおいに貢献したいものである。
我が国民には潔いこと、あっさりしたことを好む風がある。桜の花の一時に咲き一時に散る風情を喜ぶのがそれであり、古の武士が玉とくだける討死を無上の名誉としたのがそれである。日本人ほどあっさりした色や味わいを好むものはあるまい。あっさりしたこと、潔いことを好む我が国民性は、その長所として廉恥を貴び、潔白を重んずる美徳を発揮している。
しかしその半面には、ものに飽きやすく、諦めやすい性情がひそんではいないか。堅忍不抜あくまでも初一念を通すねばり強さがかけてはいないか。ここにもまた我々の反省すべき短所があるようである。
我が国民の長所・短所を数えたならば、まだ外にもいろいろあろう。我々は常にその長所を知って、これを十分に発揮すると共に、また常にその短所に注意し、これを補って大国民たるにそむかぬ立派な国民とならねばならぬ。
国語読本巻12 第27課 p215
*この文章、論説を当時の小学生が読んでいた。戦前の教科書に載っていたこれらの指摘が、70年以上を経た今でも一部そのまま云えるところがあるというのに驚く。
よく読んでみると、この文章はあるひとつの事実を異なった側面から評価していることに気付く。例えばはじめに日本という国が周りすべてを海に囲まれた立地だったために、長い歴史の中で陸続きで他国のある大陸と違って、敵に襲われにくく、侵略されることなく発展できたと述べた後で、今度はその大海の孤島という立地のせいで、自分とは異なる民族、文化に馴染みにくく内に籠もってしまいがちだと説く。
次に外国の文明を上手く取り入れ、特に明治の開国以降は西洋の文化を見本とし、吸収し、急速な近代化を成し遂げたという利点に触れた後、それは裏を返せば0から作り出すことが苦手で真似しかできないのだと欠点を指摘する。
いずれもコインの両面のように、本質の事象としては一つであるものを、異なった面から見ることによって物事を考える上での広い視野を持つことにつながり、またそれを啓蒙しているように思える。
皇室や日本の国に地理的に恵まれた環境をただ単に美化、礼賛するのではなく、かといって西洋など外国文明にいたずらに傾倒するのでもなく、うまくバランスを取っていたことがわかる。まさに中庸で、このような考えが戦前の教科書にあり、しかもそれを現代から見てお手本のように実践できていたことに驚くばかりである。
・・・ということで、大変におもしろい本でした。